一方、臨床学教室すなわち附属医院は地下1階地上3階の鉄筋コンクリート建で、基礎学教室の南100メートル余りの丘に建っていた。このため外形はそのまま残ったが、内部は爆心地帯の建物と変わらず、各階とも完全に破壊され、さらに火災となった。ここでは比較的に爆死者は少なく、角尾晋学長を始め教職員、看護婦、学生、事務関係者など負傷者が多かった。これらの人びとは、あるいは自力で、あるいは救出されて裏山に避難した。裏山には基礎学教室の方からのがれてきた人も沢山いた。
附属医院における各科教室の被害状況は次の通りであった。
角尾内科学教室(総員47人)角尾教授以下教室員18人、本館3階、同内科看護室、治療室等で爆死または被爆死亡。
角尾教授は本館3階(大半の教室員が診療に従事していた)の外来診察室で診察中、背部と大腿部に重傷を負い、裏山に救出されて調教授の手当てを受け、その後滑石救護所で加療中だったが、8月22日ついに不帰の人となった。この学長の遺骸は附属医院の構内に運ばれ、教職員ほか一同が木材を積み重ね丁重な火葬をいとなんだ。
影浦内科学教室(総員36人)古川一郎助手以下10人、教室、研究室等で爆死または被爆死亡。菊野晴二郎教授は所用帰宅中で自宅爆死。影浦尚視教授は諫早の県立教員保養所(同所長兼任)へ出張中。
古野屋外科学教室(総員37人)石崎戊助教授以下12人、外来診察所、病棟等で被爆死亡。古野屋宏平教授は外来診察所で負傷したが、救護打ち合わせのため金比羅山越えで新興善国民学校救護所におもむいた。
調外科学教室(総員約20人)溝田輝雄研究補助員は研究室で、河田ヒサヱ看護婦はギブス室で、両名とも爆死。
調来助教授は教授室で被爆後、裏山で教職員負傷者の手当にあたり、また8月12日から1週間、調外科を主体とする救護班を組織し、滑石救護所で教職員、学生、看護婦等の治療と看護に活躍した。
産婦人科学教室(総員約60人)内藤勝利教授以下21人、旧患外来診察室、2階病棟、医局などで爆死または被爆死亡。このうち看護婦は田中米子看護婦長以下14人。内藤教授は病棟1階の廊下で、8月1日空襲で焼残りの図書文献を整理中に被爆、後に遺体が熱気室で発見された。
小児科学教室(総員30人)野村仲徳副手以下8人(看護婦)、外来患者診察室、研究室で被爆死亡。ほかに路上および自宅爆死2人。
皮膚科学教室(総員36人)中山善敏助手以下12人(看護婦9人)外来診察室、治療室、研究室等で爆死または被爆死亡。北村包彦教授は外来診察室で被爆。教室員の大半がガラス破片創を受けた。
眼科学教室(総員25人)山根浩教授以下7人、病棟等で被爆死亡。
耳鼻科学教室(総員33人)玉屋キクヱ雇以下看護婦九人、研究室および屋外にて爆死または被爆死亡。
精神科学教室(総員20人)寺田文彦副手以下8人、病室、教室等で被爆死亡。
物療科学教室(総員21人)看護婦山下秀子以下7人、教室等にて爆死または被爆死亡(5人は運動場にて爆死)。 教室主任永井隆助教授は本館2階で被爆し顔面に負傷したが、それにもかかわらず、負傷者の救出にあたり、12日以降、生き残った教室員で医療班を編成し、三ツ山に救護所を設けて10月8日まで一般被爆者の治療を続けた。
薬局(総員19人)田中恵美子薬剤手補以下6人、事務室、調剤室等にて爆死または被爆死亡。
看護学校
木造2階建の看護学校(寄宿舎)は附属医院の構内にあったが、原爆で全壊全焼した。生徒は1、2年ともほとんど各科の病棟に配属されており、180人のうち58人が爆死または被爆死亡した。
また、生徒を除く看護婦は約180人のうち51人が同じ運命をたどった。
事務関係
大学本館および附属医院、医専、薬専の事務関係者は、山木武俊事務官ほか205人が爆死または被爆死亡した。
附属医院の入院患者については、8月1日の空襲以後、重傷病者をのぞき退院可能な者は早期退院の措置をとっていた。原爆当日、同病院の患者数は明確ではないが、一説によると入院患者約150人、外来患者約150人、計約300人、このうち約200人が死亡したものと推定されている。(『長崎市制六十五年史』)
このほか、附属医院では長崎消防署の医大派遣隊16人のうち、3、4人の隊員が被爆死亡した。 |