本原町2丁目の閑静な丘にあり、赤煉瓦鉄筋コンクリート3階建(裏から見ると4階建)の強固な建物であった。
ここはもともと、長崎公教神学校として大正14年に建てられたものだが、昭和17年に結核療養所となった。
原爆当時は、秋月医師と吉岡女医が診療にあたっていた。当時の入院患者は約70人。
爆風によって内部は一瞬にして破壊され、その後発火して医療器材も大方の薬品も焼失し、外部だけはそのまま残った。以来ここが焼け野原の中におけるただ一つの医療機関としての使命を担うことになった。