原爆げんばくが投下とうかされた当時とうじ、長崎ながさきの人口じんこうは約やく24万まん人にんでしたが、原爆げんばくによって1945年ねん(昭和しょうわ20年ねん)12月末まつまでに73,884人にんが亡なくなりました。74,909人にんが負傷ふしょうし、原爆げんばくの熱線ねっせん・爆風ばくふう・放射線ほうしゃせんによる病気びょうき(原爆げんばく症しょう)が人々ひとびとを苦くるしめ、生いきのこった人ひとでも時ときが経たつにつれてさまざまな病気びょうきになり、今いまでも苦くるしんでいる人ひとがいます。 また、市内しないの戸数こすうの約やく36%にあたる、18,409戸こが被害ひがいを受うけました。 (長崎ながさき市し原爆げんばく資料しりょう保存ほぞん委員いいん会かいの報告ほうこく 昭和しょうわ20年ねん12月末まつまでの推定すいてい 昭和しょうわ25年ねん7月発表はっぴょう)
原爆げんばくが爆発ばくはつした時ときに直径ちょっけい約やく280mの火ひの玉たまができ、表面ひょうめんの温度おんどは太陽たいようと同おなじくらいになりました。 原爆げんばくが投下とうかされた近ちかくでは、燃もえるものすべてが火ひをふきました。 人々ひとびとの皮ひふは熱線ねっせんを浴あび、焼やけただれてはがれ落おちたり、身体しんたいが炭すみのようになるなど、ふつうのやけどでは考かんがえられない被害ひがいをもたらしました。
原爆げんばくが他たの爆弾ばくだんと違ちがうのは、放射線ほうしゃせんを出だすということです。原爆げんばくの放射線ほうしゃせんは目めで見みたりさわったりできないのですが、人ひとの身体しんたいに入はいり、いろいろな細胞さいぼうを壊こわし、からだのいろいろな器官きかんや部分ぶぶんの働はたらきが悪わるくなって病気びょうきになります。けがをしていなくても、放射線ほうしゃせんを受うけたためにたくさんの方かたが亡なくなりました。原爆げんばくが爆発ばくはつした時ときに出だされた放射線ほうしゃせんの他ほか、爆発ばくはつした時ときの燃もえ残のこりの物ものが地上ちじょうに降下こうかしたもの(「死しの灰はい」)や、これが混まじったものが雨あめとなったもの(「黒くろい雨あめ」)など残のこった放射線ほうしゃせんで被害ひがいにあった人ひともいます。
原爆げんばくによって、爆心ばくしん地ちに近ちかいところは、火事かじや爆風ばくふうで建物たてものが破壊はかいされ、多おおくの人ひとたちが、亡なくなったり、大おおけがをしました。とくに、当時とうじ長崎ながさき市内しないでもっとも設備せつびのととのった、長崎ながさき医科いか大学だいがくは、爆心ばくしん地ちから約やく500メートルのところにあり、大おおきな被害ひがいを受うけてしまいました。そこで、県内けんないはもとより、九州きゅうしゅう各地かくちに、救援きゅうえん・救護きゅうご隊たいをお願ねがいし、次々つぎつぎと救護きゅうご隊たいが長崎ながさきにかけつけました。国民こくみん学校がっこう(今いまの小学校しょうがっこう)は救護きゅうご所しょとなり、たくさんの負傷ふしょう者しゃが運はこび込こまれました。また、けが人にんを諫早いさはやや大村おおむら方面ほうめんに運はこぶために、救護きゅうご列車れっしゃが走はしりました。しかし、あまりのけが人にんの多おおさに治療ちりょうが間まに合あわず、薬くすりも十分じゅうぶんになかったため、次々つぎつぎに亡なくなる人ひとは増ふえていきました。それでも献身けんしん的てきな救護きゅうご活動かつどうが続つづきました。