1945年8月9日午前11時2分、この地の上空でさく裂した一発の原子爆弾は、猛烈な熱線と爆風と恐るべき放射線を放ち、まちは一瞬のうちに廃墟と化しました。
るいるいと横たわる黒こげの死体。水を求め、家族を探し、さまよい歩く人々。辛うじて命をとどめた人々も、心と身体に生涯消えることのない深い傷を負いました。死者7万4千人、負傷者7万5千人。この世の終わりを思わせる惨状がそこにありました。
1.被爆50周年を核兵器廃絶元年に
あの日から50年。被爆者は年老い、被爆体験の風化が急速に進みつつあります。戦後生まれの世代が市民の七割にも及ぶ今日、戦争の悲惨さ、原爆の恐ろしさ、そして平和の大切さを、若い世代にいかに継承していくかが、問われています。
本年1月、スミソニアン原爆展が中止となり、原爆投下に対する日米の認識の違いが浮き彫りになりました。私たちの声は、果たして世界の人々に届いていたのでしょうか。
長崎市で6月に開かれた国連軍縮会議において、核兵器廃絶が議題に取り上げられました。しかし、市民の願いとの間には、大きな壁がありました。
長崎の声を世界に届け、この壁を突き破るため、被爆50周年を「核兵器廃絶元年」として新たな出発をしようではありませんか。
2.直ちに核実験を中止し、人類生存の道しるべを
本年5月、核不拡散条約再検討・延長会議において、同条約の無期限延長が決定されました。この決定は、5か国による核兵器保有を永久化するものであり、私たちは決して容認できません。また、来年までに核実験全面禁止条約交渉を終え、条約発効まで実験を自制することが合意されたにもかかわらず、その直後、中国が核実験を強行し、フランスが実験再開を決定、アメリカでの同様な動きも明らかとなりました。核保有国はシミュレーションによる核実験技術の完成を急いでおり、核兵器開発への執着はいささかも衰えていません。
私たちは、核保有国が直ちに核実験全面禁止条約を締結し、核兵器廃絶に向けタイムスケジュールを設定し、具体的交渉をはじめるよう求めます。
また、地球環境を守り人類生存の道を残すため、国連は、兵器用核物質の生産禁止、生物・化学兵器の廃絶、そして通常兵器の軍縮に取り組むべきであり、我が国も国連の場で主動的役割を果たすべきであります。
3.過去の歴史を教訓としてアジアとの共生を
今年は第二次世界大戦終結50周年でもあります。私たちは、アジア太平洋諸国への侵略と加害の歴史を直視し、厳しい反省をしなければなりません。私たちの反省と謝罪がなければ、核兵器廃絶の訴えも世界の人々の心に届かないでしょう。
日本政府は、過去の歴史を教訓とし、アジア諸国の人々と共有できる歴史観をもって、世界平和の構築に努力してください。
世界で最初の被爆国として、我が国は、核兵器使用が国際法違反であることを国際司法裁判所で明確に主張するとともに、非核三原則を法制化し、アジア太平洋非核地帯の創設に努めるべきであります。また、被爆者の実情に目をむ向け、被爆者援護の更なる充実を図るとともに、外国人被爆者にも援助の手を差し伸べることを日本政府に求めます。
4.被爆の実相を学び平和な未来を
戦後、日本では戦争のない平穏な時代が続き、国民のたゆまぬ努力により経済的に大きな発展を遂げました。しかし、世界には、戦争や紛争のために、教育を受けることも日々の糧を得ることも困難で、また明日の生命さえも不確かな、平和とは程遠い生活を送っている子供がたくさんいます。
私は戦後生まれの世代です。私たち戦争や原爆を知らない世代は、体験された方々の声に耳を傾け、戦争に至った歴史、戦争の悲惨さ、被爆の実相を学び、人類と核兵器は共存できないことをしらなければなりません。皆さん、平和な未来をつくるため、世代や国を超えてともに努力しましょう。
5.新たなたびだちへの第一歩を踏み出そう
被爆者は、家族・友人を失った悲しみを乗り越え、自ら後遺症の苦しみと闘いながら今日を迎えました。被爆者にとって次の五十年はありません。被爆者は、「私たちの生きているうちに核兵器の廃絶を」と願っています。道は険しくてもあきらめてはなりません。
長崎市は、写真・映像・通信ネットワークを通じて、被爆の実相と平和の願いを世界に発信するとともに、このたび日本政府が提唱した「核軍縮セミナー」の誘致と「国連軍縮会議」の再誘致に向けて努力します。
ここに、原爆で亡くなられた方々と全ての戦争犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、核兵器廃絶と世界恒久平和実現のため、新たな一歩を力強く踏み出すことを国の内外に宣言します。
8月9日
長崎市長 伊藤 一長 |