長崎市ながさきし  > 平和へいわ原爆げんばく  >  キッズ平和へいわながさき  > 「かやのがみたなつ解説かいせつへん
文字もじサイズ 大 中 小   印刷
キッズ平和ながさき
Google
平和&原爆 長崎市 WWW
アニメーション「かやのが見た夏」 > English
「かやのがみたなつ」(解説かいせつへん

茅乃かやのさんの家族かぞく

みぎからははみどり)、茅乃かやのあに誠一まこと)、ちち永井ながいたかし博士はかせ
 茅乃かやのさんは、1941(昭和しょうわ16)ねん8月18日、長崎ながさき上野うえのまち誕生たんじょうしました。
 家族かぞくは、おとうさん、おかあさん、10さいになるあに誠一まことさん、おばあさんの5にん家族かぞくでした。おとうさんの永井ながいたかし博士はかせは、長崎ながさき医科いか大学だいがく現在げんざい長崎大学ながさきだいがく医学部いがくぶ)の物理ぶつりてき療法りょうほう現在げんざいのレントゲン)の医師いしで、のちに、長崎ながさき原子げんし爆弾ばくだんとされたときの様子ようす世界せかいひろつたえた「長崎ながさきかね」など、たくさんのほんいたひとです。博士はかせは、長年ながねんのレントゲン検査けんさなどで、たくさんの放射線ほうしゃせんび、白血病はっけつびょうになり「あと3ねんしかきられない」と診断しんだんされていました。おかあさんのみどりさんは、むかしからつづいた、熱心ねっしんなカトリック信者しんじゃいえひとで、とてもはたらもので、とくに裁縫さいほう得意とくいでした。このなか家族かぞくは、8月9日ここのか原子げんし爆弾ばくだん投下とうかで、生活せいかつ一変いっぺんしてしまいました。

原子げんし爆弾ばくだんとは→リンク

永井ながい博士はかせ救護きゅうご活動かつどう

茅乃かやのさんたちが疎開そかいした木場こばいえ
茅乃かやのさん(みぎ から2人ふたり)、いえまえには、あたま包帯ほうたいをしたおとうさん(永井ながいたかし 博士はかせ)がいます。
 茅乃かやのさんのおとうさんである永井ながいたかし博士はかせは、爆心ばくしんから700メートルのところにあった、長崎ながさき医科いか大学だいがく附属ふぞく病院びょういん本館ほんかんにいるときに、あのひかり爆風ばくふうにあいました。
 「まえがぴかっとひらめいた。まった青天せいてんのへきれきであった。爆弾ばくだん玄関げんかんちた!わたしはすぐせようとした。そのときすでにまどはすぽんとやぶられ、猛烈もうれつ爆風ばくふうわたしからだをふわりとちゅうばした。わたしおおきく見開みひらいたままばされていった。まど硝子がらす破片はへんあらしにまかれたみたいにおそいかかる。」(「長崎ながさきかね」より)
 ったガラスの破片はへんは、博士はかせみぎ半身はんしんにちゃりちゃりとささり、みぎうえみみあたりがおおきくれて、大量たいりょうながれました。
 それでも、のこった病院びょういん医師いし看護かんごともに、怪我けがをしたひとたちの救護きゅうご活動かつどうれました。三日みっか夕方ゆうがた救護きゅうご活動かつどう一段落ひとだんらくしたので、博士はかせはようやくいえかえることができ、そこでくなったつまみどりさんのほね十字架じゅうじかのついたロザリオのくさりつけました。
 そしてその翌日よくじつ救護班きゅうごはん本部ほんぶ設置せっちするために、救護班きゅうごはん人々ひとびと一緒いっしょに、茅乃かやのさんたちのつ、木場こばいえかったのでした。

そののおはなし

正月しょうがつにおとそをつぐ茅乃かやのさん家族かぞく
 翌年よくとし永井ながいたかし博士はかせ病状びょうじょう悪化あっかし、たきりになってしまいました。それでも、生活せいかつのためや原爆げんばくおそろしさをなかつたえるため、執筆しっぴつ活動かつどうつづけました。おにいさんの誠一まことさんは、大村おおむらにある国民こくみん学校がっこうかようため、寄宿きしゅく生活せいかつをしていました。昭和しょうわ23ねんには、カトリック信者しんじゃ人々ひとびとが、茅乃かやのさんたち家族かぞくのためにいえをたててくれました。たたみ2まいぶんのへやに縁側えんがわというちいさないえでした。このいえ聖書せいしょにかかれてある「おのれのごとくひとあいせよ」というおしえにならって「如己堂にょこどう」とづけられました。このいえに、茅乃かやのさんとおとうさん、長崎ながさき中学校ちゅうがっこう入学にゅうがくしたおにいさんの3にんらしました。
 そのも、永井ながいたかし博士はかせは、ほん収益しゅうえきで、原爆げんばくくなったどもたちのための記念きねん「あのこらの」をてたり、「うちらの本箱ほんばこ」という図書としょしつをつくったり、荒野こうやとなった浦上うらかみをうつくしいはなのさくまちにしようと、さくらの苗木なえぎって、ちかくの学校がっこうなどにえてもらったり、原爆げんばく悲惨ひさんにあったどもたちを元気げんきづけたいと頑張がんばりましたが、1951(昭和しょうわ26)ねんに43さいくなりました。
 おさな兄妹きょうだいは、両親りょうしんくしてしまいましたが、博士はかせおとうとさん夫婦ふうふまわりのひとたちのあたたかい愛情あいじょうはぐくまれ、成長せいちょうしました。のちに誠一まことさんは新聞しんぶん記者きしゃに、茅乃かやのさんは教師きょうしになり、おとうさん、おかあさんの遺志いしをしっかりとぎました。

じる
長崎ながさき被爆ひばく継承課けいしょうか平和へいわ学習がくしゅうかかり原爆げんばく資料しりょう館内かんない
TEL 095-844-3913 FAX 095-846-5170 Email hibaku@city.nagasaki.lg.jp
Copyright © 2009 Nagasaki City. All Rights Reserved.